姫路城

姫路城(ひめじじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本のお城です。江戸時代初期に建てられた天守や櫓などの主要な建物が現存しており、国宝・重要文化財に指定されています。天守閣を含む堀の内側は、国の特別史跡として「姫路城跡」に指定されています。ユネスコの世界遺産にも登録されており、日本の名城100選にも選ばれています。別名、白鷺城(はくろじょう、しらさぎじょう)とも呼ばれています。詳しくは名前の由来などを参照)。

池田輝政(いけだてるまさ

姫路城は、日本の近世城郭の代表的な遺構の一つです。姫路城は平山を中心に築城され、1993年12月にユネスコの世界遺産に登録されました。また、「国宝五名城」「三名城」「平山三大要塞・平山三大調整城」の一つにも選ばれています。姫路城は1346年(南朝の正平元年、北朝の常和2年)に赤松定徳によって築城されたという説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採用しています。

一方、赤松氏のものは小規模な砦や屋敷であり、戦国時代後期に西播磨地方で勢力を誇っていた小寺氏の家臣である黒田重隆・宇倉高が城に相当する規模の建造物を最初に築城したとする説もあります。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて黒田氏・羽柴氏が城を継ぐと、山陽自動車道の交通の要衝であった姫路にあった姫路城は、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって現在のような本格的な城郭に拡張されました。
江戸時代には姫路藩の藩庁となり、また、西国の外国人大名を監視するために西国探索委員会が設置されましたが、城主が若すぎたり、病弱だったりして、大名の交代が頻繁に行われました。

池田氏を皮切りに、本多氏、榊原氏、酒井氏、親藩松平氏などの歴代藩主が城主を務め、池田輝政から明治新政府による版籍復帰時の酒井忠邦まで、6氏31代(赤松氏から数えて530年、13氏48代)が約270年にわたって城主を務めていました。

明治の初めに落札されましたが、取り壊しに莫大な費用がかかることから落札者が断念しました。後に陸軍の兵舎となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際、多くの建物が取り壊されたが、日本陸軍の中村重元大佐の協力により、名古屋城とともに大小の天守閣群や天守閣群が国家予算で保存された。

姫路は昭和の太平洋戦争中に2度の空襲を受けましたが、大天守閣の最上階に落ちた焼夷弾が不発弾だったという幸運により、奇跡的に焼失を免れました。昭和の大修理を経て、姫路公園周辺は姫路公園の中心地として整備され、現在では市内の観光・文化の中心地となっています。

名前の由来など

姫路城の天守閣は「姫路山」と呼ばれ、古くは「姫路の丘」と呼ばれていました。播磨国風土記』[17]にも「姫地丘」の名が見られる。また、姫山は桜が豊富であることから「桜木山」や「鷺山」とも呼ばれていた[18]。天守閣のある丘を「姫山」、西の丸のある丘を「鷺山」と呼ぶこともある。橋本正嗣の『姫路城物語』には、「白鷺城」とも呼ばれる「白露城」の由来について、いくつかの説を含めて以下の4つの説があります。

1:姫路城のある「鷺山」の地名から
2:白い漆喰で塗られた城壁の美しさから
3:白鷺と総称される大鷺をはじめとする多くの鳥類が生息していたこと。
4:黒壁のため「金毛城」とも呼ばれる岡山城との対比から、
「白鷺城」と呼ばれるようになりました。

また、白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」と読むこともあり、村田秀雄の「白鷺の白鷺」という歌もある。これに対し、前述の橋本は「白鷺城」の読みを中国名だからと却下し、「はくろじょう」の正しい読みを取っている。現在では、「白鷺城」としか読まない『日本史大辞典』(小学館)や『望道読山川日本史』(山川出版社)、「日本史辞典」(第三版・旺文社)、「ビジュアルワイド日本名城百選」(小学館)などでは、どちらか一方を訂正せずに「白鷺城」と併記しているものもありますが、「白鷺城」と「白鷺城」を併記しているものもあります。

姫路市では、市内の白鷺小中学校のように学校名に「白鷺城」や「白鷺」の文字が使われたり、小中学校の校歌に「白鷺」の文字が使われたりすることが多い。また、戦前に姫路市内の小学校で歌われていた「姫路市民謡」の歌詞にも「白鷺城」「池田輝政(三左衛門)」の文字が使われている。

他の別名には以下のようなものがあります。無戦城(むせんじょう幕末の新政府軍に包囲され、第二次世界大戦では焼夷弾の直撃を受けましたが、築城以来、大規模な戦火にさらされたり、大きな被害を受けたことはありません。